通勤中に読んでいた「吾輩は猫である」がようやく読破できた。
年内に読み終えられてスッキリ。
中盤までは、三毛子との恋愛模様?や、寒月君と、金田の令嬢をどうくっつけるか?、教え子達のベースボールの苦情対応等、終始のほほんとした雰囲気だったが、終盤は、一気に話が進む。
まあ、ちょいちょい首くくりの話しが出てくるので、漱石はそこでも読者に身近な死を意識させたかったのかもしれない。
苦沙弥先生のもとに、迷亭、寒月君、東風君、独仙さん、多々良三平君と、物語を盛り上げてきたメンツオールスターが集い、寒月君がバイオリンを買う、買わないのどうでも良いくだらない話が始まる。
ここまでは良かった。
ここから急転直下、スピーディーに終わりを告げるながれとなる。
三平君が自分の結婚報告に合わせて、前祝いのビールを持参。
皆で飲んで、集いは終わり皆帰宅。
主人も書斎へ、下女も湯へと、家は静寂に包まれる。
そして、「主人は早晩胃弱で死ぬ」と、死について考えはじめる吾輩。
このあたりから私は漱石小説のいつもの嫌な予感(展開)をなんとなく悟り始めた。
「死ぬのが万物の定業で、生きていてもあんまり役に立たないなら、早く死ぬだけが賢いかも知れない。」
この辺のくだりも嫌な予感しかない。
そして、「何だか気がくさくさして来た。三平君のビールでも飲んでちと景気をつけてやろう」となるのである。
「三平などはあれを飲んでから、真っ赤になって、熱苦しい息づかいをした。猫だって飲めば陽気にならん事もあるまい。どうせいつ死ぬか知れぬ命だ。何でも命のあるうちにしておく事だ。〜」
となり、勢いよく舌を入れて、ぴちゃぴちゃと飲み始めてしまう。
始めは舌がピリピリして、口中が外部から圧迫されるように苦しかったのだが、飲むに従ってようやく楽になって、一杯目を片付ける時分には別段骨も折れなくなった。
もう大丈夫と二杯目は難なくやっつけた。
〜次第にからだが暖かになる。
耳がほてる。歌が歌いたくなる。猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。〜こいつは面白いとそとへ出たくなる。
〜寝ているのだか、あるいてるのだか判然しない。
そして、前足をぐにゃりと前へ出したと思う途端ぼちゃんと音がして、はっと云ううち、一一やられた。
我に帰ったときは水の上に浮いている。〜
となるのである。
つまり、吾輩は大きな水甕(みずがめ)の中に落ちてしまったのである。
苦しいから爪でもって矢鱈に掻いたが、掻けるものは水ばかりで、掻くとすぐもぐってしまう。
そして苦しい中、ついに死を悟ってしまう。
このシーンはとても切なかった。
「無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹っているのは馬鹿気ている。」
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙るよ。」
前足も、後足も、頭も、尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。次第に楽になってくる。~ただ楽である。
そして最後のシーン。
「吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。
太平は死ななければ得られぬ。
ありがたいありがたい。」
読み終わりなんとも言えない心持ちになった。
衝撃的なラストではあったが、潔いというか、武士道というか、万人皆いずれ通る死への階段。
人それぞれ時間の短長はあるのだろうが、誰もが悟る日がこのようにやってくるのだろう。
「こころ」の作品でもそうだが、漱石の作品は個人的にはどうも陰気くさくて、太宰治の人間失格のような、単純明快!?な感じがしない。
しかし、やはり死を身近に感じていた当時の人々の心情も、この作品から想像できる。
また、猫という第三者から、人間世界を見るとこうなるんだなと思うと非常に面白い作品である。