情シスの車窓から

日常に感じたこと、徒然なるままに。

蟹工船読破

小林多喜二の小説、蟹工船を読破した。

 

蟹工船 - Wikipedia

 

小林多喜二 - Wikipedia

 

蟹工船(小林多喜二著) | 北海道マガジン「カイ」 (kai-hokkaido.com)

 

小林多喜二の小説は初めてだったが、言葉がシンプルで分かりやすかった。

東北の方言が入っていてもニュアンス的には十分通じる。

 

本作品は主人公はおらず、劣悪な環境で働かされている労働者達目線での話となっている。

 

糞壺でのひと時では限界を超えた男達の気持ちが垣間見える。

これは戦時中、つまり人間が精神的・体力的に限界を超えようと(あるいは超えた)したときにどのような集団行動を取るかという実験的な見方もあると感じた。

 

これは私の人生の書である、坂の上の雲の中にもそのような描写があり、単純な人間の残酷さ・無残さの表現で終わることではなく、冷静に考えれば、生き物がこの地球に生まれたところから現在までつないできたDNAの中に誰もが備わっていることを証明している。

 

現在進行形のロシアの侵略しかり、イスラエルのガザ進行しかりである。

 

話は逸れたが最終的に、彼らの奮起によるストライキが報われて、ハッピーエンドになったことは、この明治・大正・昭和の時代の小説には珍しい終わり方ではないかと

思う。

 

人間失格吾輩は猫であるドグラマグラ・・・等々ハッピーエンドで終わった試しがなかったので久しぶりにホッとした終わり方で安堵した。

 

また、小林多喜二についてwiki見てみたら壮絶な最期であったという。

それでも彼の作った作品がこのように100年以上経過しても読むことができる現代の世の中に感謝である。

学問のすゝめ読破

学問のすゝめを読破した。

 

学問のすゝめ|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典|ジャパンナレッジ (japanknowledge.com)

 

ドグラマグラも理解に苦しむことも多かったが、本書は猶更理解が難しく感じた。

基本的に小説ではないので、会話形式でないのも、とっつきにくかった。

 

が、断片的にでもあるが、人として独立するとは何か?を考えさせられた。

ただ家庭を・家族を養うだけが真の独立ではないと先生は仰っている。

国としての独立とは何か?個人としての独立とは何か?の精神を説いている。

 

また、当時の日本が西洋に追いつけ・追い越せという潮流に信じ切っている様も、文面から読み取れる。

 

そうであるのに、最近の世の中の有様を見ると、中人以上の改革者流や、開化先生と言った輩は、口を開けると西洋文明の美を称して、一人がこれを唱えると万人がこれに和し、およそ知識道徳の教えから治国、経済、衣食住の細かいことに至るまでも、みな全て西洋の風を慕ってこれにならおうとばかりする。

 

西洋の事情についてその一般のことを知らない者が、ただひたすら旧物を廃棄してただ新しいものを求めているかのようである。

 

なんぞ、この事物を信じること軽軽にして、またこれを疑うこと粗忽であることか。

 

西洋の文明が我が国より数段階上であるとはいっても、決してその文明は十全というものではない。その欠点を数えてみるときりがない程である。

 

彼らの風俗がことごとく美であって全てを信じていいはずがなく、我らの習慣がことごとく醜くて全て疑っていいはずがない。

 

これは流行に瞬く間に食いつく現代の日本人にも言えることと思う。

当時よりも自分の意見を主張できる世の中になったことは良かったと表向きは思うが、これだけ自由度が増してしまう世の中は反面実際は良かったのかどうか・・・

いささか疑問である。

吾輩は猫である読破

通勤中に読んでいた「吾輩は猫である」がようやく読破できた。

 

年内に読み終えられてスッキリ。

 

中盤までは、三毛子との恋愛模様?や、寒月君と、金田の令嬢をどうくっつけるか?、教え子達のベースボールの苦情対応等、終始のほほんとした雰囲気だったが、終盤は、一気に話が進む。

 

まあ、ちょいちょい首くくりの話しが出てくるので、漱石はそこでも読者に身近な死を意識させたかったのかもしれない。

 

苦沙弥先生のもとに、迷亭、寒月君、東風君、独仙さん、多々良三平君と、物語を盛り上げてきたメンツオールスターが集い、寒月君がバイオリンを買う、買わないのどうでも良いくだらない話が始まる。

 

ここまでは良かった。

 

ここから急転直下、スピーディーに終わりを告げるながれとなる。

 

三平君が自分の結婚報告に合わせて、前祝いのビールを持参。

 

皆で飲んで、集いは終わり皆帰宅。

 

主人も書斎へ、下女も湯へと、家は静寂に包まれる。

 

そして、「主人は早晩胃弱で死ぬ」と、死について考えはじめる吾輩。

 

このあたりから私は漱石小説のいつもの嫌な予感(展開)をなんとなく悟り始めた。

 

「死ぬのが万物の定業で、生きていてもあんまり役に立たないなら、早く死ぬだけが賢いかも知れない。」

この辺のくだりも嫌な予感しかない。

 

そして、「何だか気がくさくさして来た。三平君のビールでも飲んでちと景気をつけてやろう」となるのである。

 

「三平などはあれを飲んでから、真っ赤になって、熱苦しい息づかいをした。猫だって飲めば陽気にならん事もあるまい。どうせいつ死ぬか知れぬ命だ。何でも命のあるうちにしておく事だ。〜」

となり、勢いよく舌を入れて、ぴちゃぴちゃと飲み始めてしまう。

 

始めは舌がピリピリして、口中が外部から圧迫されるように苦しかったのだが、飲むに従ってようやく楽になって、一杯目を片付ける時分には別段骨も折れなくなった。

もう大丈夫と二杯目は難なくやっつけた。

 

〜次第にからだが暖かになる。

耳がほてる。歌が歌いたくなる。猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。〜こいつは面白いとそとへ出たくなる。

〜寝ているのだか、あるいてるのだか判然しない。

そして、前足をぐにゃりと前へ出したと思う途端ぼちゃんと音がして、はっと云ううち、一一やられた。

我に帰ったときは水の上に浮いている。〜

となるのである。

 

つまり、吾輩は大きな水甕(みずがめ)の中に落ちてしまったのである。

 

苦しいから爪でもって矢鱈に掻いたが、掻けるものは水ばかりで、掻くとすぐもぐってしまう。

 

そして苦しい中、ついに死を悟ってしまう。

このシーンはとても切なかった。

 

「無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹っているのは馬鹿気ている。」

 

「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙るよ。」

 

前足も、後足も、頭も、尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。次第に楽になってくる。~ただ楽である。

 

そして最後のシーン。

「吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。

太平は死ななければ得られぬ。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

ありがたいありがたい。」

 

読み終わりなんとも言えない心持ちになった。

衝撃的なラストではあったが、潔いというか、武士道というか、万人皆いずれ通る死への階段。

人それぞれ時間の短長はあるのだろうが、誰もが悟る日がこのようにやってくるのだろう。

 

「こころ」の作品でもそうだが、漱石の作品は個人的にはどうも陰気くさくて、太宰治人間失格のような、単純明快!?な感じがしない。

 

しかし、やはり死を身近に感じていた当時の人々の心情も、この作品から想像できる。

また、猫という第三者から、人間世界を見るとこうなるんだなと思うと非常に面白い作品である。

吾輩は猫である2

現在1000頁中300頁前後まで読破。

 

夏目漱石の話はどうも陰気臭いというか暗い感じが印象的だったが

この小説は実にユーモアな一面が露呈している。

 

が、三毛子さんの死や、首括りの仕方等、やはり人の死・生き物の死・死生観等が如実に登場してくる。

 

舞台が日露戦争の時期でもあり、著者も同じ時代を体験している身として、

やはり、この明治期にあたって、人々は今以上に死を身近に感じていたと思われる。

 

結核や、戦死等、人の死が今の時代以上に日常的であったのだろう。

 

この当時の死生観については令和の現代を生きる人間にもひしひしと感じ取られる。

 

吾輩は猫である

ドグラマグラ読破後、太宰先生の恥や嘘等の短編をたしなんでいたが

今更ながら夏目漱石吾輩は猫であるを読み始めた。

 

夏目漱石は何か陰気くさいというか、暗い内容が多いイメージであったが、イメージが一掃された。

 

思わずニヤッとしてしまう、猫の視点。

 

これ、猫飼っている人にとってはたまらないと思う。

飼い猫を想像してみるのも面白いと思う。

 

また、学生時代からほぼ、ゲームと野球しか興味が湧かなかった自分にとって

あれから30年近く立って、まさか夏目先生や太宰先生等の日本文学にふけっている自分が想像できたであろうか。

 

実におもしろい。

ドグラ・マグラ完読

昨年から読み始めたドグラマグラ

半年近くかかってようやく読み終えた。

 

読み終わると、数時間以内に、一度は精神に異常をきたすという天下の奇書・・・らしいが、今のところ精神に異常はきたしていない・・・はず。

 

感想としては、とにかく1935年という90年近く前に書かれているというのが率直にすごいと思った。

 

この世界観、そして精神世界・現在の精神科学にも通じそうな、脳髄論等。

 

ただ、この時代の小説にありきたりな、ほぼ100%自殺が発生するのと、エンディングが読者に考えてもらって終わりを迎えるという点が、モヤっとしたのも正直な気持ち。

 

正木先生は死なんで欲しかったなあ。

 

著作権の問題もあるのかもしれないが、今の時代に続編も出たらいいなと妄想する。

映画でもよいかもしれない。

 

そしてwikiで調べると関連した様々な作品が過去に出ていることを知った。

 

ドグラ・マグラ - Wikipedia

 

中にはペニシリンのPVとの記載も。

HAKUEIさんも読破したのだろうかと考えてみる。

 

それにしても日本文学の素晴らしさ。

まだ、多くの小説がiphoneには眠っているので、しばらく読書にふけるとしよう。

 

ドグラ・マグラの世界観

数年前からiphoneで無料の小説を読みあさっている。

 

太宰治芥川龍之介夏目漱石島崎藤村・・・日本文学の巨匠達の作品を無料で読めるのは非常にありがたい。

 

数か月前から通勤中に読み始めたのが、夢野久作ドグラ・マグラ

 

読み終わると、数時間以内に、一度は精神に異常をきたすという天下の奇書・・・らしい。

 

読み始めて納得した。

確かにこれは、入り込んだら精神が病むかもしれない。

ということで、客観的にこの世界観に没頭している。

 

記憶喪失・発狂・精神病院・キチガイ世界・脳髄が神をも超え人類を破滅させようとしている・世の中キチガイの人間しかいない等々、21世紀の科学においても解明されていない事が今から90年近く前に提起されており、更にいうと90年経過した今でも、人間は同じ過ちを繰り返し続けているという事実。

 

そして世の中不完全な人間しかいないという事実を認識すると・・・

習近平プーチン・会社の仲間・家族・友人・・・どのような人間であろうとも、なぜか寛容になっていけそうな気がしてくる。

 

それは同情・諦めということではなく、不完全な脳髄をもつ人間の欠陥という事実という意味で。

 

全1,300頁のうちまだ、350頁らへんだが、まったりと読みふけっていこう。